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明智藪(伏見区)

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写真: 明智藪(伏見区)

写真: 明智藪(伏見区) 写真: 明智藪(伏見区)

(17.11.24.)
以前読んだ明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」の所感5%概要95%、6回目ツイートします┌(_ _)┐

本能寺の変当日、一般に浸透されていない史実が4点あります。定説とされている諸説に合理的にむすびつけられないからであり、解明できないからです。

ひとつ。家康以下40名ほどの重臣が堺から本能寺へ向かっていたこと。筒井順慶も呼び出されていたこと。信長は大量の茶道具を安土から持ち込んでいたこと。
おそらく信忠も接待役として呼ばれていたであろうこと。光秀は信忠、家康も待って攻撃すべきだったこと。

ふたつ。信忠見落とし。信忠は信長の命で家康一行に同行していたが、堺へは行かず5月29日に入京し妙覚寺に宿泊している。6月2日、信忠は本能寺が攻撃されたことを知って二条御所へ移り籠城したが、その行動に至るまで光秀は信忠に気づかなかった(とされている?)。

光秀は信長を討ったあとに二条御所を包囲した。本能寺周辺を決起前にまったく監視下に置いていなかったのか。
討ち漏らしの許されない謀叛行動において、家臣の行動、安土に集められていた直属軍勢の動向も把握しておかなければならなかったはず。

信忠を同時に討たなかったのは手違いや偶然と片付けようとする研究者がいるようだが、そんな迂闊な軍事行動はかの時代でも考えられない。

フロイスが「才略、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受け、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と光秀を評している。

みっつ。安土城進軍。信長は公家衆に6月4日に西国へ出陣すると語っている。つまり、6月2日には出陣準備をほぼ整え終えていたであろう信長直轄軍が控えていたはずなのだ。

ところが、信長・信忠を討った光秀はそのまま安土城へ進軍し、無血入城を果たしている。防御力の高い安土城へ集結していたであろう直轄軍は、桔梗の旗の接近に、籠城もせず逃げ落ちたのだろうか。

よっつ。信長はなぜ無警戒で本能寺にいたのか。信長は油断したので光秀に討たれたとされているが、「戦術にきわめて老練」とフロイスに評価されていた信長の行動とは思えない。

信長の遺体が見つからなかった、ということをなぜ提示しないのかとツッコミが入るかもしれない、ということを氏は解説しています。

この話は加藤廣著作「信長の棺」が生み出した創作に過ぎない。

江戸時代の軍記物(先述、創作物)が世の中に広まり、それを学者たちが認めて定説としてしまったわけだが、これもまた同様に、世間がそれを史実として濃く誤解してしまったがゆえに混同されて広まり、学者たちも以下略。

これは現代の火災事故(事件)の物理現象から判明する。たとえば、火災現場から二体の焼死体が発見されたとする。報道初期は「身元を確認中」と言っている。その家に住んでいるAさんBさんと連絡が取れませんなど。

報道番組やテレビドラマなどで、言葉だけだが「焼死体は損傷が激しい」、「人相の判別が不可能」などと聞く。歯型照合から、DNA鑑定から、などと行われて身元を判明できるのは現代だから。数多の焼死体から特定のひとりを見つけ出すことは、戦国時代には不可能であっただろう。

自刃に陥る大名・武将に、居所へ火を付ける者が多いのは首を取られたくないからと思われる。居室、衣類ことごとく、あるいは鎧兜でさえもすべて灰燼と帰す。目的人物の遺体が見つからないなど当時は常識であっただろう。本能寺が火に包まれた時、光秀は慌てたかもしれない。そして諦めたのだろう。

信長の遺体が見つからないことを謎とするのは、現代においては非常識だ。

そしてこの4つの謎を解くにあたり、本城惣右衛門という光秀の兵が興味深い記録を残している。最初は丹波兵卒として明智方と戦ったときのこと。中盤に光秀の兵として働いたこと、本能寺へ討ち入ったこと、終盤は秀吉の兵として戦った話が書かれている。

「本城惣右衛門覚書」要約。

「信長を討つとは夢にも知らなかった。山崎へ向かっていたところ、思いのほか京都へ行くとのことなので、我々は上洛中の家康を討つものだとばかり思った。」

惣右衛門のみならず、周囲の兵みなが「信長の命で家康を討つ」と考えていたと分かる。

「信長公記」6月1日の条に、「老の山へ上り、山崎より摂津国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ」と書かれているので一致する。光秀の軍勢は亀山から東に向かい、山崎から摂津へ進行するという命令を受けて動いていた。

惣右衛門の覚書にはほかに、「斎藤利三の息子に従って本能寺へ向かった」、「本能寺で捕まえたひとりの女を利三へ引き渡した」とも記されている。
これは本能寺襲撃の指揮を斎藤利三が執っていたことを示している。

先述、「言経卿記」の6月17日条「日向守の内、斎藤内蔵助は、今度の謀反随一」に合致する。また女性が生き残ったことも、信長公記に「女はくるしからず、急ぎ罷り出よ」とそれまで側に付き添っていた女たちを追い出している。

そしてフロイスの「日本史」。「兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国王を殺すつもりであろうと考えた」と惣右衛門とまったく同じことを書いている。

信長が家康を討つなどと、現代人の誰もが聞いて驚き、多くが有り得ないと叫び、学者たちでさえ「あの時点で信長が家康を討つわけがない」と決めつける話を、そのとき現場にいた兵たちはみな一様にそう思ったのか。驚きがなく、むしろ予備知識があったかのような自然な流れで。

一方で現代人の多くがこれを聞いて驚くのはなぜか。それは430年間だれもそのような話を言っていないからだ。光秀軍の中では常識であったことが、天正10年6月2日以降非常識に変わってしまった。

「死人に口なし」。信長も光秀も死んでしまった。ふたり以外に真実を知る少数の人間が秘すれば、あとは権勢が悪宣言、虚報を流すことで真実は消える。

だがただひとりだけ真実を述べている。「光秀は細川藤孝に仕えていた」と述べた江村専齋である。彼の語りを聞き書きした「老人雑話」にはこうある。

「信長は長谷川竹に命じて、家康に堺を見せよと同行させ、実は隙を見て殺すつもりだった」

信長が長谷川竹を家康に同行させたことは信長公記にも書かれている。
江村専齋が生きた寛文4(1664)年までは、信長が家康を討とうとしたことが非常識ではなかったのだろう。

「〜はなはだ決断を秘め、〜困難な企てに着手するに当たってはなはだ大胆不敵」と評された信長の戦略を、果たして現代人が読めるだろうか。
いかに非常識であろうとも、無意味な観念論で思考停止せず、現存する証言を科学的に検証するのが歴史捜査である──と氏は綴っている。

ひとつめ。信長は当該日本能寺で何をしようとしていたのか。惣右衛門の覚書から見れば、信長は家康を本能寺に呼び出して光秀に討たせようとしていたことにならないか。

あの信長が、このとき徳川家康を滅ぼそうとしたら。諸案諸策練った結果の最善手が、家康と重臣を一堂に集めて殺害、のちに三河へ攻め込み指揮能力を持たない徳川軍を降伏させるということか。

密かに三河へ大軍を率いて、電撃的な侵攻作戦を行ったとしたら。全面戦争に突入し、仮に最後は家康を滅ぼすことができたとしても織田軍も大損害を受けていたであろうし、長期戦化も確実だったろう。

信長は家康主従と穴山梅雪を安土城へ招いた。家康は5月14日に安土近くの近江番場へ到着、安土城で饗応を受けた後日、5月21日に京都〜大坂〜奈良〜堺を見物するために出立した。これは信長の上意である。案内役として信忠と長谷川竹が同行した。

そして堺まで遊覧した家康一向を本能寺へ招き、信長が席を外した隙に光秀の手勢に家康一向を討ち果たさせ、ただちに光秀・筒井順慶の軍勢で徳川領へ侵攻せよと命令を下していたのだ。

(氏はアレコレ断定した書き方を多くしています。いくつかテメエ的に濁して記してしまっています。)

ではなぜ安土城でなかったか。
安土城では準備や決行を察知されるなどといった難があったのかもしれない。警護万全な安土城では謀反を起こすまい。では警護手薄な本能寺では。ここで事件を演出する。

家臣や同盟者が離れないための工夫も当然していたと考えられる。「家康が謀反を起こそうとした。だから返り討ちにした」という名目に説得力をもたせるために。

ふたつめ。なぜ光秀は信忠を見落としていたのか。フロイスの日本史にこうある。「これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来逆上しやすく、自らの命名に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、

人々が語るところによれば、信長の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと信長は立ち上がり、怒りを込め一度か二度明智を足蹴にしたということである。だがそれは密かになされたことであり、ふたりだけの間での出来事だったので後々まで民衆の噂に残ることはなかった」

その諍いは家康饗応の準備をしていた頃に安土城内で起こった。ふたりの諍いは光秀の謀反決断に大きな意味を持っていたが、ここでは、なぜ饗応の準備をふたりで密室で行なっていたかに注目したい。

密室で打ち合わせる必要があること。それは他人に聞かれてはまずい話。つまりそれが家康討ちの計画だ。
ふたりは5月13日までのどこかで家康討ちの計画をふたりで立てた。信長が光秀を選んだのは、最も信頼する腹心だったからだろう。

ところが、家康討ち計画は信長討ちに変わった。実行は極めて容易だった。段取りのすべてを信長自身がつけていたのだから。信長の指示していた時間、家康到着前を狙うだけでよかった。だから、光秀は信長周辺の動向を監視する必要が一切なかったのである。

本能寺襲撃は思惑通りに進んだ。計画外であったのが信忠の存在である。

家康一向と信忠は5月29日に堺へ入ったが、信忠は予定を変更して入洛していた。信忠が乱丸に宛てた書状には、「信長が一両日中に安土を進発すると聞き及び、堺見物を取りやめて京都で出迎える」とある。

信忠が家康一向と別れ先に入洛するなどとは、信長と光秀の打ち合わせにはなかった話なのだろう。信忠が行動を変更したとき亀山城にいた光秀は、この情報をつかむことができなかった。信長も光秀に知らせる必要を覚えなかった。

ゆえに、妙覚寺に宿泊し、本能寺襲撃を知った信忠が二条御所に移動し籠城するまで、光秀はその存在に気づけなかったのである。

みっつめ。安土城進軍。
このとき安土城に軍勢はいなかった。

家康一向を送り出した後信長が取りかかったのは、三河侵攻の準備。

光秀の出陣準備が中国侵攻であると信じさせるために、わざわざ饗応役を免じている。

5月29日、「御上洛の御触れ」が出されたことが信長公記に書かれている。
「御小姓衆二、三十召し列れられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御一左右次第、罷りたつべきの旨、御触れにて、今度は、御伴これなし」

各方面へ広く知らされた。家康にも。中国出陣のための一時的な上洛と、わざわざ断り書きを入れて。

だが中国出陣は偽装だった。公家衆に語っていたのも家康を欺くための演出。信長は中国に出陣するつもりなどなかった。

「惟任退治記」にはこうある。
「信長にお伺いを立てるとさっきゅうな合戦は避けるべきとの命令があり、堀久太郎秀政に池田勝九郎元助、中川瀬兵衛清秀、高山右近重友などを援軍として差し遣わした。

信長は信忠を京都に同行し、加えて光秀を軍師として早々に着陣させて秀吉と相談するようにと命じた。その作戦の次第では信長も出陣する旨を厳重に申し渡した。」

太田牛一の信長公記にはこうある。
「秀吉は高松城を取り囲み、水攻めにした。毛利、吉川、小早川の大軍が押し寄せて対陣した。信長はこの話を聞き、この機会に出陣して毛利を討ち果たすべきと堀久太郎を使いとして秀吉へ伝え、

光秀、長岡与一郎(細川忠興)、池田勝三郎、塩河吉太夫、高山右近、中川瀬兵衛を先陣として出陣を命じ、休暇を与えた。五月十七日、光秀は安土から坂本に帰城した」

ふたつの史料は大いに食い違っている。
世間一般の定説は織田毛利は一触触発の緊張関係。だが惟任退治記を読むと信長はさっきゅうな決戦を望んでおらず、自身の出陣は決定も準備もされていなかった。

惟任退治記は、おそらく秀吉が信長から実際に受けた指示命令が書かれている。信長が実際に現場の秀吉へ発した命令と、直近で行われる家康討ち・三河侵攻のための周囲へ流した偽情報に違いがあるのだ。

信長の中国出陣がでまかせであることを知っていた光秀は、安土城に西国出陣のための軍勢などいないことが分かっていた。

本能寺の変のときの光秀の軍勢は、惟任退治記は2万、フロイスの日本史には中国出陣に引き連れた軍勢は7000〜8000、本能寺を取り囲んだのは3000と書かれている。

数は不詳だが、光秀はその数で、安土城を占拠できると確信があった。よって進軍は行われた。

よっつめ。なぜ信長は無警戒だったのか。なぜ油断していたのか。

けして油断などはしていない。光秀への信頼感。成功事後の目算の立たない無謀な謀反など、合理的な光秀が起こすはずがないという掌握感。

また、家康に本能寺が安全だと信じさせることが肝心だった。そのために偽装工作を行ってきたのだから。

前述、信長は20〜30人の小姓しか連れていない。家康主従は40人強。穴山梅雪もいる。「家康が謀反を起こしたので返り討ちにした」という名目が立つ。

つまり無警戒で本能寺にいたわけではない。信長の企てには、少人数でそこにいる絶対条件があったのだ。

家康らに隙を生ませる策略をいくつも用意していたことだろう。だが、自分の企画実行に気を取られ、それを逆手に取られることなど、思い及ばなかったのだろう。

光秀とふたり、家康討ちの計画を練り、成功させるための策略に神経を注いでいた信長。これこそ、「油断」であるが……。


当文庫本163ページ地点です。ここからが氏曰く真骨頂。信長と光秀、本能寺の変にからんださまざまな人物の行動と史実の捜査が真相に? 迫っていきます。ここからがなおおもしろい。

明智光秀の史跡巡回に併せてツイートし、ひとつにしてフォト蔵に掲載し、これも6回目(6ヶ所目)になります。もう少し早く始めていれば、もうちょいつぶやけたのですが…。

今回でしばらく光秀絡みの史跡に行く計画がなく。つまりつぶやくこともないかなあと。つぶやくだけでいいじゃんとか思いはするのですがねー。どうにも笑

まあぜひ読んでください。マンガ化されましたが、やはりシンプルになっちゃってますので。明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」です。

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