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河越城 本丸御殿(埼玉県)

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写真: 河越城 本丸御殿(埼玉県)

写真: 「蔵造りの町並み」・「時の鐘」(川越市) 写真: 河越城 本丸御殿(埼玉県)中ノ口

mixiアルバム記事コピペ――
河越城北面(本丸御殿)
2014年01月21日 01:34

河越城南面(富士見櫓)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000088657865&owner_id=32815602


道灌の築城方法は、“道灌がかり”という連郭式縄張りで、子城、中城、外城など独立した曲輪を連ね、周囲に高さ二間ほどの土塁が築かれる。曲輪の間には堀を巡らし、飛橋で連結、各入口には土橋、引き橋、食い違い虎口や横矢がかりなどの仕掛けが作られた。敵が侵入しても中城に拠って防げる構造となっており、城郭はおよそ5万坪、8門8櫓を構えた。
新編武蔵風土記稿によると、本丸の南西にある20mの高台に富士見櫓を築いたのは道灌である。三芳野神社が祀られた天神郭も同じく。
城北に赤間川(現新河岸川)、さらに北を入間川・越辺川などが流れて外堀の役割を果たしている。城南には遊女川(よながわ)の湿地帯。武蔵野台地北端の丘陵に位置し、東方を睨んだ自然の要害である(比高5〜6mほど)。

後北条氏は大幅な修繕を実施、特に大道寺政繁は三の丸と八幡郭の拡張を行い、西方面への防備を強化している。
承応2(1653)年、大河内松平家 松平伊豆守信綱(知恵伊豆)により大拡張工事が行われた。寛文年間に完成、倍の規模の近代的城郭になる。信綱による修築以前の姿は、国立歴史民俗博物館の「江戸図屏風」でわかる。
弘化3(1846)年、二郭にあった御殿が焼失。嘉永元(1848)年、藩主越前松平家 松平斉典により、本丸に御殿造営が行われた。

江戸時代前期は「老中の居城」とも綽名された。後期は親藩。


埼玉巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1n7FXl59z93Omd64JgBAzU4whzdY&usp=sharing


●18.02.06.
中に入ってないことを忘れていました……(° v °;) 思い出してから、また決行するまでに時間がずいぶん経ってしまいましたが<(≧ε≦)テヘペロ!
川越はほぼ毎年来ているのに……( ̄ω ̄;) 散歩は数年ぶりで……。

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