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13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

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写真: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

写真: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田) 写真: 13.10.22.細川越中守下屋敷跡(品川区上大崎)

2013年10月23日 01:15

●柳生宗厳――
やぎゅうむねよし。
大永7(1527)年〜慶長11(1606)年。父は柳生家厳。宗珍の8代目。
新陰流継承者、新陰流2世。
但馬守叙任。
石舟斎は号。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。

はじめ富田流の戸田一刀斎、次いで新当流の神取新十郎に剣術を学んで名を挙げていった。
永禄6(1563)年、新陰流の上泉信綱と出会い仕合うが、信綱どころか、弟子の疋田景兼にすら勝てなかった。宗厳は己の未熟さを痛感し即座に弟子入りした。
永禄8(1565)年8月、皆伝印可。元亀2(1571)年、一国一人の印可を受ける。新陰流継承。

※宗厳の孫 利厳を流祖とする尾張柳生家は、新陰流の嫡流は宗厳が継いだとし、疋田景兼は傍流で「疋田陰流」を創始したとする。しかし、景兼自身が疋田陰流を名乗った事績は無い。

筒井順慶、後に松永久秀に仕える。織田信長の大和国入りを案内した。
永禄9(1566)年、多武峰衆徒と戦い拳を射られる。
永禄11(1568)年、柳生谷への帰路で落馬、重体に陥る。
元亀2(1571)年、嫡男 厳勝が辰市合戦にて鉄砲で撃たれ重傷を負い、剣を振るう事が出来なくなった。これよりほどなく、宗厳は出奔、柳生に隠遁した。
松永久秀が信長に謀反を起こした後はその影響下からも離れ、久秀が敗れたのちに大和へ入った筒井順慶にも従わなかった。筒井氏と当時敵対関係にあった、縁深い十市遠長と結び、独立体制を保った。

時は下り、豊臣秀吉の天下。
天正13(1585)年、羽柴秀長が大和に入国。太閤検地が行われ、隠田が摘発された。その罪で2000石の所領を没収され、宗厳は浪人となった。近衛前久に寄食したという。
そののち、黒田長政の仲介により、文禄3(1594)年5月3日、徳川家康に京都鷹が峰御小屋へ招かれた。そして家康本人を相手に無刀取りの術技を示す。
家康より兵法指南役に迎えたいと申し出を受けるが、宗厳は66歳と老齢だったためこれを辞退し、代わりに5男 宗矩を指南役として推挙した。

後に柳生で500石の所領を賜る。
墓所は奈良市芳徳寺。法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。


●柳生氏――
柳生氏の姓は菅原姓で、菅原道真が祖先とも言われている(藩翰譜)。
柳生氏の事績が登場するのは南北朝時代で、「玉栄拾遺(柳生家家譜)」によると、元弘3(1331)年、播磨守永珍(宗珍。大膳亮永家の子とされる)は南朝方に従い、六波羅探題の北条仲時・時益の戦で武功を上げ、後醍醐天皇より大和国小楊生(大楊生とも)庄を与えられた。この領主となり、柳生と名乗ったとされる(「玉栄拾遺」も伝承の域を出ないという)。
柳生家発祥地は、大和国北部の添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)。また、「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音する。

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