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10.11.11.彰義隊墓(台東区。都営上野恩賜公園)

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写真: 10.11.11.彰義隊墓(台東区。都営上野恩賜公園)

写真: 彰義隊墓(台東区。都営上野恩賜公園)

2010年12月14日 22:22

●彰義隊結成、発足――(ウィキコピー、ちょっち修正)
鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜は江戸城へと移っていたが、1868年2月11日に新政府に対する恭順の意を表し、翌12日上野寛永寺に蟄居。
これに不満をもった幕臣の本多敏三郎と陸軍調役の伴門五郎が11日に檄文を発し、有志へ会合をもちかけた。 翌12日、集会場所に指定した雑司ヶ谷の酒楼「茗荷屋」には、一橋家ゆかりの者ら17名が集まり、寛永寺に謹慎した慶喜の復権や助命について話し合った。17日には円応寺に場所を移し30名ほどで会合を行っている。
21日に開かれた会合には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招いただけでなく、幕臣以外にも有志を求めたため、諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士まで参加している。その結果、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成され、「尽忠報国(国に報いて忠を尽くす)」とともに「薩賊」の討滅を記した血誓書を作成した。
23日に浅草の東本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成した。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付いた。天野は幕臣ではないものの胆力があり、隊士の支持をうけ中心人物となった。
旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られることを恐れ、また彰義隊と治安改善を願う江戸住民に対する懐柔を兼ねて江戸市中取締に任じた。以前から反幕府勢力の赤報隊が幕府軍を挑発する為に江戸で放火や略奪を行ったり、薩摩藩が江戸庄内藩屯所を襲撃するなど治安は悪化していた。更に薩摩藩御用盗や長州藩の無銭飲食、無銭宿泊、略奪、強盗などが横行し江戸市民の恐怖と不満は爆発寸前だった。結成の噂を聞きつけた旧幕府ゆかりの者のみならず、町人や博徒や侠客も参加し、隊が1,000名を越える規模になった。4月3日に本願寺から寛永寺へ拠点を移動する。

4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が水戸へと退去すると、千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた。移ったのちも、彰義隊は寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けた。勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促したが、東征軍と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し、最盛期には3,000〜4,000人規模に膨れ上がる。渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は江戸での駐屯を主張したため分裂。天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を図ったため、渋沢は彰義隊を離脱(一時期軟禁されたとの説がある)。一時姿を隠していたが、同志とともに飯能(現埼玉県飯能市)の能仁寺で「振武隊」を結成し独自に活動を展開。渋沢の離脱に伴い彰義隊は隊を再編成したが、天野は頭並の地位に止まっている。
西郷隆盛が組織した御用盗は、江戸各地で放火や強盗を起こし、それを彰義隊の仕業としていた。江戸城も放火の被害に遭った。長州藩士達の無銭飲食や無銭宿泊等も当然の様に行われ、江戸の秩序治安が激しく悪化した。そのような理由から彰義隊士と新政府軍兵は小競り合いを起こした。
新政府側は、1868年5月1日に彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。これにより彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発。軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同14日に彰義隊討伐の布告が出される――

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